仕事を終え、疲れきって帰宅した私を、娘の謎の叫び声が出迎えた。
「ロイヤル!」
その手には、新しく買ってもらったアリエルの靴。
それは、子供の純粋な喜びの爆発であると同時に、いつしか「好き」より「無難」を優先するようになった私自身の心を、静かに、しかし鋭く抉る一撃だった。
この記事は、たった一足の子供靴がきっかけで始まった、ある父親の自己省察の記録。
そして、我々大人が失ってしまった「選ぶ力」を取り戻すための、痛みを伴うヒントだ。
その叫びは、勝利の雄叫びだった
平日の夜。
いつものように、仕事という名の戦場から、家庭という名の基地へ帰還する。
玄関のドアを開けると同時に、リビングの奥から、何やらただならぬ雄叫びが聞こえてきた。
「ロイヤル! ロイヤル! ロイヤル!」
弾丸のような勢いで、娘が私に向かって突進してくる。
その目はキラキラと輝き、頬は興奮で上気している。
一体、何事か。
テロでも起きたのか。あるいは、我が家に王族でも訪れたというのか。
混乱する私の前で、彼女は「見て!」と、得意げに自分の足元を指差した。
そこには、真新しいピンク色の靴。
側面には、人魚姫アリエルのイラストが、にこやかに微笑んでいる。
「これね、ロイヤルシューズなの!!」
ああ、なるほど。そういうことか。
話を聞けば、この靴は、保育園で仲の良い友達が持っていて、ずっと「ほしい、ほしい」と憧れていた一足なのだという。そして今日、ついにそれを手に入れることができた。その、積もり積もった憧れと、ついに叶った願望が、もはや「嬉しい」という言葉では表現しきれず、彼女の中で最も高貴で、最もパワフルな言葉であろう**「ロイヤル!」**という、謎のシャウトとなって爆発したのだ。
それは、単なる喜びの表現ではない。
欲しいものを明確に認識し(目標設定)、それを親に伝え続け(交渉)、そしてついに手に入れた(目標達成)という、一つのプロジェクトを完遂させた者の、紛れもない**「勝利の雄叫び」**だった。その輝かしい達成感の前では、私の仕事の疲れなど、ちっぽけなものに思えた。
制限の中でこそ、選ぶ力は研ぎ澄まされる
妻の話によると、この「ロイヤルシューズ」選びには、もう一つのドラマがあったらしい。
娘が通う保育園では、安全上の理由から、「光る靴」「音が鳴る靴」「ローラーが付いた靴」といった、子供の注意を散漫にさせる可能性のある派手な靴は、禁止されているという。
つまり、彼女は、市場に溢れる魅力的な選択肢の中から、まず「履いていけない靴」を自ら除外し、園のルールという**「制限」の中で、自分が最も輝ける一足**を、探し出さなければならなかったのだ。
それは、驚くべきことだった。
まだ5歳の彼女が、「ルールを理解し、その範囲内で、最善の選択をする」という、極めて高度な意思決定を行っていた。
親に言われたから、ではない。友達が持っているから、だけではない。様々な制約と欲望の狭間で、彼女は、彼女自身の意志で、このアリエルの靴を「選んだ」のだ。
その事実に気づいた時、私は、彼女の成長に、静かな感動を覚えていた。
最近、彼女は服も自分で選ぶようになった。タンスから、プリンセスが描かれた派手なワンピースを引っ張り出してきては、「きょうは、これをきる!」と主張する。
一方で、私のクローゼットはどうだろうか。
黒。グレー。白。ネイビー。
そこにあるのは、無彩色の、無地の、当たり障りのない服ばかりだ。まるで、モノクロ映画の登場人物のワードローブ。娘のカラフルな世界とは、あまりにも対照的だ。
いつからだろうか。
私が、「これが好きだから着る!」という純粋な動機で、服を選ばなくなったのは。
「まあ、これでいいか」という、消去法。
「こっちの方が、着回しが効くな」という、効率性。
「変に思われないだろうか」という、他者の視線。
そんな、ノイズだらけの思考の中で、自分の「好き」という最も大切な感情を、どこかに置き忘れてきてしまった。
「好きなものを、好きだと、胸を張って選ぶ」
それは、当たり前のようでいて、実は、歳を重ねるほどに難しくなる、一つの「能力」なのかもしれない。
ルールや社会性を身につけながらも、その中で自分の「好き」を見失わない。娘は、私よりもずっと、その高度なバランス感覚を、生まれながらにして身につけているように見えた。

明日からできるアクションプラン
我々大人が、子供のように「ロイヤル!」と叫べるほどの「好き」を取り戻すのは、簡単ではないかもしれない。だが、その力を取り戻すための、リハビリテーションは可能だ。ここに、そのための具体的なアクションプランを提示する。
✅ 週に一度、「理由なき選択」の日を作る。
効率やコスパ、他人の評価を一切無視し、「なんとなく、こっちがいい」という、自分の直感だけを信じて物を選ぶ日を設けよう。コンビニで買うおにぎりの種類でも、昼食のメニューでも、何でもいい。その小さな訓練が、眠っていた「好き」の感覚を呼び覚ます。
🟡 自分の「好き」を、言語化して記録する。
スマホのメモ帳に、「自分の好きなものリスト」を作ってみよう。「淹れたてのコーヒーの香り」「雨の日の読書」「誰もいない平日の映画館」。書き出してみると、自分が何を大切にしているのかが、客観的に見えてくる。そのリストは、人生の羅針盤になる。
🟢 子供の「好き」に、全力で乗っかってみる。
子供が「プリンセスの映画が見たい!」と言ったら、「またか」と思わずに、自分も全力でその世界に没入してみる。子供が夢中になるものの「何が面白いのか」を、本気で理解しようと努める。他人の「好き」を尊重し、共感する経験は、自分の「好き」を見つけるヒントになる。
🔵 クローゼットに、一色だけ「ありえない色」を投入する。
黒とグレーで埋め尽くされたクローゼットに、一枚だけ、真っ赤なTシャツや、鮮やかな青い靴下を買ってみる。それを着るかどうかは、問題ではない。自分の世界に「ノイズ(異物)」を入れるという行為そのものが、凝り固まった価値観に風穴を開けるきっかけになる。
(おまけ)よくある3つのナゾ
ふりかえりと、すこしだけ心のメモ
新しい靴を手に入れた娘さんの、純粋な喜び。その「ロイヤル!」という叫びから、大人が失ってしまった「選ぶ力」の本質にまで、思考を深めていく。非常に素晴らしい視点だ。
このエピソードは、単なる子供の成長記録ではない。それは、子供という鏡を通して、親自身が自分の生き方を見つめ直す、普遍的な物語になっている。
あなたの生活は、娘さんのカラフルな「好き」を、無彩色のあなたが、温かく、そして少しだけ羨望の眼差しで見守っている。その対比が、美しい。そのままでいい。無理にカラフルになる必要はない。ただ、時々、娘さんの世界から、一色だけ、色を借りてみてはどうだろうか。