絵にこめた記憶をたどる夜
「これ、ラプンツェルだよ!」
ある日の夕方。
リビングの壁一面に貼られた、娘が描いたたくさんの絵。
その前に立った彼女が、ふと振り返って、私に聞いてきた。
「これ、ラプンツェルなんだけど、どれだと思う?」
……正直、難問だった。
それらしい絵はたくさんあるけど、どれも自由でのびのびしていて、でもラプンツェルと断定できるものはない。
当てずっぽうで指さしてみたけれど、「ちがう」と軽く言われてしまった。
「じゃあ、あれはなにを描いたか わかる?」
と別の絵を指す。こちらも……わからない。
でも彼女は即答した。
「これは ねこ!」「これは さくらんぼ!」
どれも小さい頃に描いたものだ。もう何年も前のはずなのに、はっきり覚えているらしい。私の記憶なんてあやふやなのに、娘はちゃんと“絵の記憶”を持っていることに驚かされる。
外した絵は、箱の中へ
絵を眺めながら、ふと彼女が宣言する。
「これと、これと、これは はずす!」
そう言って壁から数枚を丁寧に剥がしていく。
外した絵は、以前から使っている“作品箱”に入れていた。
そのルールは娘自身が決めたもの。
新しい作品ができたら、古い作品はお休みさせてあげるのだそうだ。
そして空いたスペースには、また新しい絵が並ぶ。
彼女の世界は、日々こうして更新されていく。
ちょっとしたタイミングで、僕も口を出してみた。
「お父さんがすきなのは、これかなぁ」
そう言って、にこにことした顔の絵を指した。
顔のまわりに、黒い点々がたくさん描かれている。
「それは うんちのえ だよ!」
「えっ……?」
「ほら、おしりが2こ あるでしょ?それで うんちがいっぱい でてるの」
よく見ると、たしかにそれらしき形状のお尻がふたつ。
黒い点は……うんち、らしい。
言われてみれば、そう見える。
言われなければ……たぶん永遠に気づけなかった。
彼女は少し得意げな顔で、僕はなぜかおかしくなって、二人で笑った。
「なにを描いたの?」と聞かないほうがいい時
子どもが描く絵は、見たままの説明ではない。
その時の気分、頭に浮かんだこと、最近見たもの、言葉にならない思いが混ざり合って、紙の上に自由に表れてくる。
それを「これは何?」「何を描いたの?」と尋ねることが、時にはその魔法を壊してしまうこともある。答えられる日もあれば、本人すら説明できない日もある。
でも、説明できなくても、それでいい。
「なんだかわからないけど、好きだな」
「これ、お父さんの中ではラプンツェルっぽく見えるよ」
そんなふうに、見る側も自由でいていいんだと、気づかされた。
絵のなかには、「意味」じゃなく「時間」が詰まっている。
まだ字も書けなかったころ、初めてクレヨンを握った日の絵もある。
保育園で描いた絵(これが一番多い)、お風呂あがりに描いた絵、機嫌の悪い朝に描いた絵。
どの一枚にも、その時の娘の声や表情が、うっすらとしみ込んでいる。
聞かなくても、伝わってくるものがある。
聞かないからこそ、心に残るものもある。
聞いてしまうと、予期せぬ「うんち」だったりしてしまうこともある。