子供の「気まぐれ」と、知らない人の「善意」。親の判断力が試される、子育てのリアルな正解

「今日は〇〇にしようね」と決めたはずの予定を、子供の「やっぱりイヤ!」の一言で覆される。
あるいは、「知らない人から物をもらっちゃダメ」と教えているのに、目の前で差し出された親切を、どう断ればいいか戸惑う。子育てとは、そんな「マニュアル通りにいかない」瞬間の連続だ。

この記事は、我が家の娘との、そんな予測不能な一夜の記録。
そして、子供の自主性と社会性を育む上で、親の「判断力」がいかに重要か、その基準をどこに置くべきかを探る、父親のための実践的な考察である。

目次

予定調和を壊す、子供という才能

仕事を終え、保育園へ娘を迎えに行く。
金曜の夜ではないが、平日の終わりには、何かささやかな「お楽しみ」が欲しくなるのが人情だ。その日の夕食は、近所の洋食屋「オリーブの木」と、朝のうちに約束していたはずだった。

だが、帰り道。
チャイルドシートに座る娘が、窓の外を流れる景色を見ながら、ふと叫んだ。
「やっぱり、はま寿司がいい!」

来たか。
娘には、この「土壇場での心変わり」が、実によくある。
以前の私なら、少し眉をひそめて、「一度決めた約束だから、今日は変えられないよ」と、大人の理屈で諭していたかもしれない。「ルールは守るものだ」と、小さな社会性を教えることも、親の役割だと信じていたからだ。

しかし、最近の私は違う。
その日の気分で食べたいものが変わる。
そんなの、大人だって日常茶飯事じゃないか。むしろ、自分の心に正直でいられるのは、素晴らしい才能だ。平日の仕事で疲れ切った頭と体で、これから始まる夕食の時間が、少しでも楽しく、笑顔の多いものになるのなら。予定なんて、紙くも同然だ。

「よし、わかった。じゃあ、今日もはま寿司にしよう!」

私のその一言に、娘は「やったー!」と歓声を上げる。その笑顔を見れば、夕食の行き先なんて、どちらでも良くなる。大切なのは、「どこで食べるか」ではなく、「どんな気持ちで食べるか」なのだから。

店に着くと、数組の待ち客がいたが、幸いにもすぐに席へ案内された。
タッチパネルを前に、娘は目を輝かせている。そして、一切の迷いなく、「はまっこうどんセット」を注文した。

ああ、やっぱりな。
親としての本音を言えば、回転寿司に来たからには、魚の味を覚え、様々なネタに挑戦してほしい、という思いがゼロではない。しかし、彼女にとっての“メインディッシュ”は、うどんでも寿司でもない。セットについてくる、あの小さなカプセルに入った「ガチャガチャのおまけ」なのだ。

だが、ここで「お寿司を食べなさい」と言うのは、野暮というものだろう。
私は、彼女の「自分で選びたい」という意志を、最大限尊重することに決めた。うどんが食べたいなら、それでいい。ガチャガチャが目的なら、それもまた結構。今日の夕食の主役は、君なのだから。

すると、どうだろう。
あれほど「うどん!」と主張していた彼女が、目の前のレーンを流れる寿司に、興味津々の視線を送っている。そして、「おとうさん、あれとりたい」と、鰻や漬けマグロ、大好物の玉子などを、次々と指差すではないか。

結局、彼女はうどんを平らげた後、しっかりと寿司も堪能していた。締めは、いつものチョコアイス。これもまた、彼女の譲れない「定番」だ。すっかり満足げな顔で、スプーンを口に運ぶ娘の姿を見ながら、私は確信した。

子供の「やりたい」を信じて、一度任せてみる。
親がレールを敷かなくても、彼らは自分の興味と好奇心に従って、勝手に世界を広げていくのだ。私が「寿司を食べさせよう」としなくても、彼女は自ら「寿司を食べたい」と思った。
その、自発的な探求心こそが、何よりも尊い。

銭湯で出会った、ネクターおじさん

お腹いっぱいの満足感を抱え、私たちは、そのまま次の目的地へと向かった。
我が家の定番コース、「天神湯」。
美味しいものを食べた後に、大きな湯船で体を温める。これ以上の幸せが、この世にあるだろうか。

湯船に浸かりながら、他愛もない話をする。今日保育園であったこと、美味しかったうどんの話、ガチャガチャで出てきたおもちゃの話。その、中身のない、しかし温かい時間が、一日の疲れを溶かしていく。

そして、その夜もまた、予想外の出来事が、私たちを待っていた。

風呂上がり。
火照った体で、腰に手を当てて牛乳を飲もうとしていた、その時。
見知らぬおじさんが、ニコニコしながら、娘に近づいてきた。その手には、そこにある自販機で買っていた一本の「不二家ネクター」。
「おじょうちゃん、これ、飲むかい?」

一瞬、私の頭の中で、警報が鳴り響いた。
「知らない人から、ものをもらってはいけません」
それは、この物騒な世の中で、子供を危険から守るために、親が繰り返し教え込まなければならない、最重要ルールの一つだ。私も、娘にそう言い聞かせてきたつもりだった。

だが、目の前の現実は、マニュアル通りにはいかない。
おじさんは、どう見ても人の良さそうな笑顔を浮かべている。その眼差しに、悪意のかけらは微塵も感じられない。そして、彼は畳み掛けるようにこう言った。
「いいんだよ、いいんだよ!俺ぁ、ここに来るたびに、子供を見つけると、みんなにあげてるんだから!」

なんと。
彼は「ネクターおじさん」だったのだ。
私の脳内は、フル回転で状況を分析する。
【原則】知らない人からの施しは、断るべき。
【現状】しかし、この好意は、限りなく「白」に近い「グレー」。ここで無下に断れば、この人の善意を傷つけることになるかもしれない。そして、その光景を、娘はどう受け止めるだろうか。

「こういう場合、どう娘に説明するのが、正解なんだ…?」

数秒間の葛藤の末、私は「あ、ありがとうございます…」と、戸惑いながらも、そのネクターを受け取ることを選択した。そして、娘に手渡す。娘は、一口飲むと、「…あまっ!」と、その濃厚な甘さに驚きの声を上げた。しかし、なんだかんだで、最終的にはその9割方を、美味しそうに飲み干していた。

さらにお腹が膨らみ、Tシャツからぽっこりと突き出た、彼女の「でべそ」。
私が「でべそが出てるぞ」とからかうと、彼女はキャッキャと笑いながら、脱衣所を走り回る。
その無邪気な姿を見ながら、私は、今日一日で、二つの大きな「判断」を迫られたことに、改めて気づいていた。

一つは、子供の「内なる声(気まぐれ)」に、どう応えるかという判断。
そしてもう一つは、社会からの「外なる声(善意)」に、どう向き合うかという判断。

そのどちらにも、絶対的な「正解」など、存在しない。
あるのは、その場、その瞬間に、親が、自身の価値観と子供の状況を天秤にかけ、下す、極めて人間的な「決断」だけだ。

明日からできるアクションプラン

子育ては「判断」の連続だ。マニュアルのない状況で、親がより良い決断を下すための、思考のフレームワークを提案したい。

✅ ルールの「目的」を、常に意識する。
「夜更かしはダメ」というルールの目的は?→「十分な睡眠をとらせるため」。ならば、翌日が休みで、昼寝もできるなら、少しだけ夜更かしを許す日があってもいい。「知らない人から物をもらうな」の目的は?→「危険から守るため」。ならば、安全な場所で、親の目の前での、悪意のない好意なら、受け取るという「例外」を経験させることも、学びになる。ルールを金科玉条とせず、その背後にある目的から、判断を導き出そう。

🟡 子供の「意志」を、まず肯定する。
「やっぱり〇〇がいい!」と言われた時、即座に「ダメ」と否定するのではなく、「そっか、〇〇が食べたくなったんだね」と、まずはその気持ちを受け止める。そのワンクッションがあるだけで、子供は「自分の気持ちを理解してもらえた」と感じ、その後の親の判断にも、納得しやすくなる。

🟢 迷った時は「より笑顔が増える方」を選ぶ。
予定を守ることの教育的価値と、予定を変えて夕食を楽しむことの幸福度。どちらが、その瞬間の我が家にとって、より重要か。厳格さよりも、柔軟性の方が、家族の笑顔を増やすことは、意外と多い。

🔵 「なぜ、そう判断したか」を、子供に言語化して伝える。
ネクターを受け取った後、私は娘にこう説明した。「いつもはダメだけど、今日はお父さんが一緒で、この場所が安全で、おじさんが優しそうだったから、特別に『ありがとう』って、もらったんだよ」。なぜOKで、なぜNGなのか。その判断基準を、子供が理解できる言葉で伝えていく。その積み重ねが、子供自身の判断力を育てていく。

(おまけ)よくある3つのナゾ

子供の「急な気まぐれ」、毎回つきあうべき?

もちろん、毎回応じる必要はありません。しかし、特に親も疲れている平日の夜などは、「教育的効果」よりも「今の楽しさ」を優先する方が、結果的に親子双方の精神衛生に良い場合があります。その日の親の体力と相談し、柔軟に対応するのが吉です。

見知らぬ人からの好意、子供にはどう線引きを教えればいい?

基本ルールは「親がいない時は、必ず断って、すぐにその場を離れる」で徹底しましょう。その上で、親が一緒にいる状況では、「お父さん(お母さん)が『大丈夫だよ』って言った時だけ、一緒に『ありがとう』をしようね」と、親の許可を判断基準にすることを教えるのが、現実的な落としどころです。

ネクターを配るおじさん、結局なに者だったの?

おそらく、彼もまた、子育てを終えた、あるいは、孫の成長を見守る、一人の「先輩」なのでしょう。子供の笑顔を見るのが、何よりの喜びなのかもしれません。彼は、子供にネクターを、そして親には「社会との関わり方を考える」という、少し難しい宿題をくれる、この街の、心優しきテスト係なのです。

ふりかえりと、すこしだけ心のメモ

仕事終わりの疲れた体で、娘の「気まぐれ」に柔軟に対応し、夕食の時間を楽しいものに変えたあなたの判断は、素晴らしい。それは、硬直したルールよりも、その場の家族の幸福を優先するという、成熟した父親の姿だ。

また、「ネクターおじさん」との遭遇は、まさに現代の子育ての縮図。
100%の安全と、100%の善意が両立しない社会で、どうリスク管理をし、どう社会性を育むか。その難しい問いに対し、悩みながらも一つの「決断」を下した。そのプロセス自体が、父親としての、そして一人の人間としての、確かな成長の証だ。

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